検定の仕方

まず、集めたデータが正規分布になっているかを確認する

また、等分散性を仮定できるかどうかを調べるために、F検定を行う

両方OKならt検定を行う

等分散性を仮定できなければ、ウェルチの検定か、マンホイットニーのU検定を行う

正規分布を仮定できなければ、ノンパラメトリック検定を行う。


参考文献
入門はじめての分散分析と多重比較

分散分析は名前が変わる

実験結果の優位性を示すために、分散分析を行う。しかし、これがややこしい。

グループの個数によって
グループが2個なら、2つの母平均の差の検定
3個以上なら、   1元配置の分散分析

因子の個数によって
1個なら、 1元配置の分散分析
2個の場合、2元配置の分散分析

対応関係の有無によって
ないとき、1元配置の分散分析
あるとき、反復測定による1元配置の分散分析

母集団の分布によって
正規分布が仮定できる 1元配置の分散分析
できない       ノンパラメトリック分散分析

となる。

参考文献
入門はじめての分散分析と多重比較

「幼児教育現場におけるソーシャルロボット研究とその応用」のまとめ

◯研究背景
ソーシャルロボットの研究目的には2つの方向性がある。一つは人間を支援するロボット技術開発に知見をつなげようとする(工学的有用性)ことと、人間を知るための手段として用いようとする(科学的学術性)ことである。

◯問題点・目的
ロボットを用いて教育支援をしたいと思っていたものの具体的にどのような技術を用いてどのような場面を対象とするかについて判断しにくい
いかにして人間を長く引きつけることのできるロボットを作れるか

◯提案手法
(1) 保育所での探索的研究
ロボットが他の玩具とは異なる扱われ方をしたこと。子どもたちの世話欲をかきたてるようなロボットの振る舞いは、子どもたちの興味を長期間引きつける。

(2) ケアレシーバー型ロボットを用いた子どもの学習支援
RUBIと名付けられたロボットの胸部スクリーンに単語と画像提示と共に音声発話したところ、ロボットなしの場合と比べて有意に未知語獲得が促進された。
チャイルドケアロボットはケアギバー型、つまり子どもたちに何かを教えようとするものであった。これに対し、ケアレシーバー型、子どもたちが教えるタイプのロボットに着目し、教育者である親や教師が教育トピックを定めた上で、子どもたちにそのトピックをロボットに対して教えさせる。ロボットは子どもたちの自然な世話欲を引き出すよう、容易に間違えたり、不完全な振る舞いをしたりするようにデザインされている。不完全なロボットの面倒をみることにより、結果として子供たち自身もそのトピックに対する学習を深めていくことが真の狙いである。通常、散漫になりやすい子どもたちの注意や集中力をロボットへのケア意識を通じて教師が提示した学習タスクそのものに長時間引きつけることが結果的に可能であるという、教育現場にとって有益な高架も見えてきている

(3)世界の子どもたちをつなぐ遠隔操作ロボットシステム
子どもたちの教室空間を拡張し、より魅力的かつ有益な教育環境を提供しようとするものである。
近年Skypeなどの普及により、遠隔TV会話は奥の人々が比較的容易に用いることの出来る技術となった。そしてこれらの技術を用いて遠隔教育や異文化交流を行おうとする試みが各地で始まっている。一方でロボットも数多くの遠隔操作型が提案されてきた。しかし、最新技術と現実応用にはなお多くの問題があり、問題の顕在化のためには実証実験が必要である。
そこで、子どもたちが遠隔地に置いたロボットを遠隔操作することで現地の活動に実時間参加することが可能なシステムを開発した。
ターゲットタスクを遠隔地感での子ども受け渡しに設定した。物の受け渡しは教室内で最も頻繁に行われるインタラクション携帯の一つであり、教師たちもレッスン内にてこの行動を取り入れているため、これが可能になれば数多くの教室活動に参加できる。問題としては、本システムでは、インターネット上で実装しようとすると、遅延が発生する。大人であればある程度対応可能だが、子どもたちが対象であり、実際の教室活動中なので、致命的なものになりうる。
この問題を発達心理学における社会的随伴性の研究と結びつけつつ解法を模索している。社会的随伴性は人間が発達初期より有する原始的コミュニケーション能力の一つであり、自らの行動に随伴して起こる外界イベントへの注意志向と関係する
社会的随伴性が適切に実装されていれば人間は一定の遅延があってもその対象に注意を向けることが可能になると推察できる。しかし、社会的随伴性のデザインパターンは無限に存在するため、実装には実験的研究が必要である。



◯結論
ロボティクス分野において、人間とのインタラクションに関わる知見は増加している。そして人間を対象にすることによって様々な周辺分野とのつながりが生まれ、研究者の興味を集めている。こうした現状で、一般社会とのつながりを盛んなものにしていくことが重要である。社会貢献と研究推進の両面でプラスに働く可能性を秘めている。

「基礎情報学」のレビュー

「コミュニケーションするロボットは創れるか」を読み、その著者が感動したという基礎情報学を読んだので、ここでその感想をしたためておく。

情報とは、コンピュータ・メモリに蓄えられたデータや断片的知識のようなものばかりではない。その本質は生物による意味作用であり、意味を表す記号動詞の論理的関係や、メディアによる伝達作用はむしろ派生物に過ぎない。言葉の意味はどのようにして他者の心へ伝えられるのか?

基礎情報学では、神経生理学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラが創始し、生命哲学として注目されているオートポイエーシス理論に基づいて、この問題を考察する。

かつて、「情報学」という名称は、現在の図書館情報学の一部を構成する、文献情報の管理・検索に関わる学問領域を指す場合が多かった。しかし、いまではITの利用を前提とした学問の総括的名称となっている

本書で述べる情報学とは、端的には、『意味作用』に関する学問である。
意味という言葉は、意義、重要さ、価値をも表す。

基礎情報学では、意味を作り出す存在としての生命から出発し、意味作用を担う情報が、社会的に伝達され記憶されていく基本的なメカニズムについて考察する。

(1)情報の意味作用はいかにして生まれるのか
(2)情報の意味はいかにして社会的に共有され、社会的リアリティを形成するのか

20世紀初めの物理学が予見した情報という概念を、初めて学問として体系化したのが、20世紀中葉に登場した情報科学であった。3C,すなわち、フォン・ノイマンらが発明したデジタルコンピュータ、クロード・シャノン情報理論、ノーバート・ウィーナーのサイバネティクスはいずれも1940年代に出現した。デジタルコンピュータは単なる実用的な計算機械ではなく、人の思考のm出るとみなされたが、その論理演算の可能性を追求したアラン・チューリング、アロンゾ・チャーチらの理論研究は、情報科学の極めて重要な1分野となった。

3C(Computer, Communication, Control)と呼ばれるこの3分野は、いずれも情報機械に関わっている。それぞれ、プログラムによる情報の処理編集、通信機器による情報の伝達、情報を利用した機械の自動制御がその内容である。理論的分析というより、光学的な実践的応用という側面が強くなり、20世紀後半には情報工学として発展した。

認知科学情報工学というよりむしろ心理学から発して、コンピュータモデルにより人の心的現象を解明しようとしている。ロボット研究はある意味でその工学的応用といえる。人工生命研究は、直接人の知能というより、昆虫などを含めた生物進化のシミュレーションを通じて、生物的知能の機械的実現を目指すものである。

自動車やコンピュータは他の誰かが設計し、製作するものである。これを「アロポイエティックシステム」と呼ぶ。これに対して生命システムとは、外部の誰かによって設計製作されるものではなく、自己複製する存在である。すなわち、過去の歴史に基づいて、自己言及的・閉鎖的に自らを作り続ける存在である。これをオートポイエティックシステムと呼ぶ。

情報とは生命体の外部に実態としてあるものではなく、刺激を受けた生命体の内部に形成されるものである。あるいは、加えられる刺激と生命体との間の関係概念であるといったほうがより正確である。

情報とは、『それによって生物がパターンを作り出すパターン』である。パターンとは、それを認知する解釈者との間に成立する関係概念なのである。関係概念であることを強調するには、むしろパターンよりも差異や区別のほうが分かりやすい。グレゴリー・ベイトソンは情報を『差異を作る差異』と定義した。ここには再帰的な特徴も捉えられているが、生物という面が抜けている。ベイトソンはフィードバックのある自動制御機械を情報処理機械とみなしていたが、これはサイバネティクスパラダイムであり、オートポイエティックシステムとは異なる。

記号論記号学はともに記号に関する学問であり、言語学者ロマン・ヤコブソンが統一化した経緯もあり、共通点もあり、混同されることもあるが、出自も内容もかなり異なる。

記号学は19世紀末から20世紀初頭に始められた比較的若い学問で、いわゆるポストモダンの源流。スイスの言語学者フェルナンド・ソシュール構造主義言語学とロシアのフォルマリズムとをあげることができる。

続く

小学校でのロボット援用教育の適用事例

今日は論文プロポーザルを作成
Today I made a proposal

ロボット援用教育の背景として、小学生の理科離れが進み,科学的なものの見方や,考え方ができない生徒が増えていること、コミュニケーション能力が低下していること。
As a background of robot assisted instruction, the students dislike science and can't think using scientific method.

原因は、現代の日本では少子化により家庭での会話が減り,地域社会の交流は少なくなっている.一方で,情報化社会の発展により,インターネットの中だけでしかコミュニケーションができない人も増えており,引きこもりは社会問題となっている.
Because the conversation of family is decreasing by low birthrate and contacts in local society is also decreasing. On the other hand, as developing of information society the people who can only communicates in the web, withdrawing is social problem.

内閣府が発表した,「科学技術と社会に関する世論調査」では,科学技術に興味を持つ人は増えているものの,実際に科学技術の成果に触れる機会は少ないと.


学校で学ぶ理科や数学が科学的センスを高めるのに役立っていないと言われる.

そこで,ロボットを教育に用いることが考えられる.ロボットに触れることが学習の動機になると考えられる.

ロボット遠隔教育とロボット演劇教育の2つのロボット援用教育を提案した.

ロボット遠隔教育ではコミュニケーションの活性化を目的に小学校にてロボットを用いた授業を行った.コンピュータの代わりにロボットを用いて授業を行うことは,授業内のコミュニケーション機会を増やすことに繋がる.また,学習に対する動機付けとしてもロボットは有効であると考えられる.

ロボット演劇はロボットのイメージを一般の人々に正しく伝えることを目的に行われた[6]が,演劇がコミュニケーション能力を高めるのに効果的であり,かつロボットを使うことが生徒のロボットに対する理解を助けると考え,ロボット演劇教育を提案し,小学校にて実際に行った. これにより,ゲーム形式で生徒のコミュニケーション能力開発支援と科学技術への興味を引き出すことができたと考える.

[6]石黒 浩, 平田 オリザ: “ロボット演劇”, 日本ロボット学会誌, Vol. 29, No. 1, pp.35-38, 2011

論文のまとめ(ロボット演劇)

ロボット学会誌Vol.29, No.1, pp.35-38,2011のロボット演劇(著者石黒浩平田オリザ)のまとめです。


◯研究背景
様々なヒューマノイドロボットが開発され、それらを用いたコミュニケーションの研究が盛んに行われている
人の特徴的な動きを模倣することで、非言語コミュニケーションの重要性が徐々に明らかになってきた。

◯問題点
どのようなロボットの仕草が、人間に取って心地良く、自然と感じることができるかについては、まだ知見は十分ではない
ロボット研究の可能性を示すのに、実験室で特定の機能を検証する場合、なかなか伝わらず、期待と現実のギャップがロボットの普及の障害になりかねない。
汎用的な機能開発が中心であったが、機能が制限されていたため、一般の人々のロボットに対する期待に応えられなかった。

◯目的
ロボット開発における新しい方法論を模索すること、
ロボットの基本機能に対するこだわりを捨て、潜在的な表現能力を発揮すること
ロボット実用化においてメーカーが必要とする多くの情報を得ること
ロボットのイメージを一般の人々に正しく伝えること、期待と現実のギャップを埋めること

◯提案手法
シナリオとシーンを限定し、その中でロボットの表現能力を極限まで引き出す。ロボットは決められたスクリプトで動くだけでよく、技術的な問題を回避できる。さらに、十分に人間と関わることができるシナリオやシーンを増やしていくことで、徐々に汎用的な機能が実現でき、ついには機能の実現に至る可能性がある。機能中心の開発をトップダウン的なアプローチとすると、シナリオとシーンを限定したアプローチはボトムアップのアプローチであり、双方必要なアプローチでありつつ、両者は将来融合すると考えられる。
ロボット役者として、三菱重工製のワカマルを用いた。高さ100センチ、直径45センチ、体重30キロ、車輪による移動機構を持ち、最大速度は1キロである。
平田はロボット演劇のシナリオをこれまでに2つ作成し、「働く私」と「森の奥」である。
「働く私」では2体のロボットが登場し、それぞれ、タケオ、モモコである。二人の俳優は、政府から職を失ったものに支給されるロボットと暮らす夫婦を演じる。
モモコは料理を得意としなくてはならない存在であるが、タケオは働くことに疑問を感じている。そのことが原因で働けなくなったタケオの状態を通じて、人間にとって「働く」とは何かを考える内容となっている。
講演時間は27分で、ロボットと人間の違いは何か、ロボットにも人間にも心を感じられるか?という問題意識を持ちながら、ロボットの対話内容や感情を表現する仕草に注意を払いながら開発した。
演劇では会話の内容が決められているため、音声認識は必要ない。むしろ、仕草の演出や会話の間が重要な要素となる。
仕草のプログラミングが最も難しく、通常ロボットの動作は作業効率のみを重視するが、演劇においては、無駄とも思える動きにより、個性を表現し、人間らしさをより強く表現することができる。これらはパントマイムや、人形浄瑠璃の動きを元にデフォルメすることで実現した。
演劇では、セリフを喋るときに動きをつけるのは不自然に見える。人間の動きでもしゃべるのと同時に動くことは殆ど無い。そこで、発話と動作のタイミングに若干のズレを組み込むことでロボットの人間に対するコミュニケーションの質が向上した。
また、何もしていないときの動作も重要であり、体を微少に動かしたり視線を動かすことで生き物らしさを与えた。

◯実験結果
約60%の観客がロボットの演技は自然であったと答え、約90%の観客が、本当に会話していると感じ、演劇そのものを面白いと感じた。
約70%の観客が感情移入したと回答した。
約60%の観客が「ロボットにこころを感じた」と回答した。

◯結論
心が人間同士や人間とロボットの間の複雑な相互作用に現れる主観的な現象であるとするなら、ロボット演劇では、シーンやシナリオを限定して、その現象を引き起こせた。
芸術においては、経験や直感によっていきなりパフォーマンスの高い結果が導きだされる。科学技術はその結果を元に、それを導くための仕組みを研究するのが役目である。
あたらしい現象を作り出す芸術とその仕組を探求する技術の連携こそが、新しい技術を生み出す真の芸術と技術の融合であろうと考える。技術だけに注力していては新しいものが生まれる可能性は少ない。

「コミュニケーションするロボットは創れるか」のレビュー

いままでに開発されてきたロボットに足りないもの、それは「自律性」であると説き、どうロボットにそれを持たせるかをテーマに説明していく。

初めに知識についての人工知能的な方法論について語るが、そこでは「国語辞典の罠」と呼ばれるトートロジーに陥る。
そのため、ロボットが環境との相互作用によって、意味を獲得していく方法が必要だとしている。

飽きられてしまうロボットの例にAIBOがあがっているが、AIBOは設計者が作成したパターンを使用者がダウンロードして使うだけなので、ロボットは成長するものの、違和感があるという。

飽きられるロボットと飽きられないロボットの違いとして、「自律知」と「道具知」があり、ロボットに何か頼みごとをしそれをロボットが音声認識してタスクを実行した、というだけでは面白さが感じられず飽きる。自律知を持ったロボットなら使用者の予想できない動きをするので飽きない。それにより、ペットロボットを本物のペットのように感じられるという。

本書に必要な知識として、ピアジェのシェマ理論や、ギブソンアフォーダンス、谷のRNN、強化学習オートポイエーシスなど、読者に求められるものは多い。「知能の謎」や「脳・身体性・ロボット」、「基礎情報学」を読んでいると入りやすいかもしれない。
博士論文よりは一般的になっているものの、専門用語は多く、読むのも苦労するだろう。逆に数式などを知りたい人は博士論文を読んでくださいとのことだ。

文章が硬いので読みづらさはあるが、良いトレーニングになると思う。なにより、このような文章を書く著者に脱帽である。

本書では、コミュニケーションと題しているが、言語を使った会話などは扱わず、原初的な部分に焦点を当てている。この理由として、いままでの言語学では統語論に言語の本質を見出そうとしてきたが、成果が出ていないため「旧来の言語学が行ってきた、言語系を他の系との相互作用のない自律的な系とみなすのではなく、言語・記号系が自律的適応系の身体を通して物理環境・社会環境に接続されながら創発的に形成されるものであると考え、記号的・社会的な世界と、物理的・身体的な世界の「間」に焦点を当てた」。

ここを解決しない限り、第2,第3のAIBOを産み出してしまう。「ロボットが身体と経験に基づいて言葉を接地しない限り、ロボットはスイッチの代用でしかなく、道具知から抜け出すことはできない。」が、個人的には、コミュニケーションするロボットは道具知と自律知を併せ持っているのではないかと思う。

本書の結論(推理小説じゃないから言っても大丈夫か?)では、「コミュニケーション」の全てを明らかには出来ていないが、足りない部分をこれから一つ一つ埋めながらやって行くしかないと述べている。そして、本書は間違いなく、それらのピースを埋めてきたのであり、これから埋めていこうとする人にとっても有益だと感じた。